私は三輪山には登る気にはなれない

狭井神社登山口

神様、というと、全ての人々を救ってくれる、優しい存在だと思っている人々も多いかと思う。

式年遷宮後に伊勢神宮に行った際に、4人位のグループで来ていたおばちゃん連中が、風日祈宮の前でとても騒いでいて、下らないお願いごとをしたことに対して「こんなことで神様は怒らないわよねー」と話す声が聞こえてきた。

それを聞きながら内心「そういう態度が一番怒るんだよね、、、」と思ったけれども、まぁ自業自得なので仕方がないかな。

Web解析をしていると、このブログに「三輪山 登山 止めた方がいい」とかいう検索ワードで辿るつく人がいることを知る。

私は大神神社には2回ほどお伺いしているけれども、三輪山には登ってはいけないような気がしたので、登ってはいない。

個人の自由なので、三輪山に登ってはいけない、とは言わないけれど、ただ単にパワースポットって紹介されているから、という考えで登るにはあまりにもリスクが大きいところだと知った。

霊魂に対する恐れというものがわれわれの死後観の大きな要素になっていることを述べたのですが、つぎに他界観を簡単に述べると、霊魂のいく世界としてわれわれが考えていますのは、やはり山がいちばん多いわけです。

その山も、最初に述べたように、山岳霊場といわれるもののあり方と見ますと、山の神というものは、ひじょうに恐ろしい神、怨霊であるとも考えられているようなものがずいぶん多い。

たとえていいますと、大和の三輪山には三途河があったり、京都の鳥辺野の入口には六道の辻があったりというようなことが、中世までの文献には書いてあります。現在そんなことをいったら大神神社が怒ると思うくらいに、中世の神道書には三輪山をもって他界と考えております。

これはなぜかといいますと、ここにいまの三輪信仰のもとをなす大神氏の祖先神である大物主神という神が祭られている、その神奈備であるというように『日本書紀』には書かれています。その「祟神天皇紀」を見ますと、祟神天皇の五年から七年にかけて、ひじょうに疫病がはやるわけです。これは大物主神の荒魂のしわざということで、日本人の約半数も殺してしまうような怨霊神であった。そういう怨霊的な祖霊を祭っている山への信仰というものが起っている。

~日本人の死生観―民族の心のあり方をさぐる (角川選書) より引用

これだけではなく、民俗学方面の三輪山について書かれている文献を読むと、とてもじゃないけれども、私は三輪山に足を踏み入れる気にはなれない。

まぁ、三輪山に登るかどうかは、ご自身でいろいろ調べて判断されたらいいんじゃないでしょうか。ただ、パワースポット♡なんて言っているひとたちは、民俗学なんて全然気にしちゃいないんでしょうけど(笑)

日本人の死生観―民族の心のあり方をさぐる (角川選書)
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