鏡神社&比売神社

新薬師寺を出て、右手にあった神社にお参りさせていただく。

南都 鏡神社

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ちょっと不思議なカンジがしたところだった。

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拝殿は春日大社そのものだなぁ、と思ったら、春日大社の第三殿を譲り受け、移築されたものである、という記述を見つけた。

大同元年(806年)に新薬師寺の鎮守として境内南側にて創建された。藤原広嗣が処刑された唐津の鏡神社から勧請を受けたものと伝えられる。
現在の本殿は、延享3年(1746年)に春日大社の第三殿を譲り受け、移築されたものである。一間社春日造り建築で、奈良市指定文化財となっている。

wikiより引用

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お参りさせていただいて、おみくじを引いてみたら、えー、と言うメッセージ。

ちょっとダウナーな気分になりつつ(とほほ)、今までの自分の身の振り方を考えたりするのだった。。。

そして、新薬師寺のすぐそばにあるお社を発見。

それは鏡神社の摂社の比売神社(ひめかみしゃ)というところだった。

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御由緒について詳しく書かれた新聞記事があったので、それを読むと下記のように書かれていた。

2006年11月10日朝日新聞より
大和の鎮魂歌 悲劇の主人公たち
夫婦で建てた「比売神社」
文:桐村英一郎

古代にあって、十市皇女(とおちのひめみこ)ほど歴史の荒波に翻弄された女性は以内だろう。彼女は情熱の歌人額田王(ぬかたのおおきみ)と天武天皇になる大海人皇子(おおあまのみこ)との間に生まれた。額田はその後、大海人の兄、天智天皇に召されたといわれる。十市は天智の子、大友皇子(おおとものみこ)に嫁ぐ。
壬申の乱は父と夫の戦いだった。敗れた夫は自害。十市は生き残り、父のもとに引き取られた大海人は娘の救出にやっきとなったはずだ。家康が孫の千姫を落城する大阪城から救い出させる場面を思い起こさせる。
飛鳥の宮に身を寄せた十市は、戦いから6年後の678年4月7日、宮中で突然死ぬ。日本書紀はそれ以上の説明をしていないが、私は自殺ではないかと思う。父の正妻である後の持統天皇(じとうてんのう)は十市に冷たかったろう。苦悩が重なり、生きる望みを失ったに違いない。

皇女の御霊を鎮めるため、個人で神社を建てた夫婦がいる。そんな話を耳にして、奈良市高畑町に住む寺島富郷さん(80)に会いに行った。
新薬師事東門お前のお宅で、高校の教諭だったという寺島さんはゆっくりとした口調で話し始めた。
「あれは昭和54(1979)年、伊勢神宮に向かう電車内のことでした。私の首に白い蛇が巻いているのが妻のキヨコの目に見えました。キヨコには、お寺の塀沿いにある『比売塚』から『祀ってほしい』と頼んでいる声も聞こえたそうです」
「これは大変だとなって、新薬師寺の隣にある鏡神社の梅木春和宮司にうかがったところ、比売塚には十市皇女が埋葬されているという言い伝えがあるとのお話でした。皇女が私たち夫婦に語りかけてこられたに違いない、神社をつくろう、と決心したわけです」
比売塚は高さ1メートル、広さ9坪ほどの土地で雑草が生い茂っていた。そこだけ国有地だったので寺島さんは財務局に日参し、払い下げを頼んだ。そして土地は新薬師寺の名義、新しくつくる「比売神社」は鏡神社の摂社、お金は寺島さんが出す、こういうことになった。
2年後の81年、比売神社は完成した。命日を新暦に直した5月9日に皇女の霊魂をお迎えする御鎮座祭が開かれた。
「十市神社といった名でもよさそうなのに、なぜ、ただヒメ神社としたのですか」と聞いたら、「大げさなことはしたくありませんでした。ささやかにお祀りしたいと思いました」という返事が返ってきた。
寺島家は代々高畑町に暮らしてきたわけではない。戦後、中国の大連から引き揚げ、51年5月9日に高畑町に移り住んだ。御鎮座祭がぴったり30年後だったのも不思議な巡り合わせである。
皇女は本当に比売神社の場所に眠っているのか。それはわからない。日本書紀には「赤穂に葬る」とあるだけだ。
「赤穂」はどこか、にも諸説ある。新薬師寺近くの赤穂神社は候補地のひとつ。そこだとすると高畑町にお墓が2カ所あることになる。
「比売塚は『秘め塚』でもあり、みだりに上ってはいけない聖地でした。私は比売塚がお墓で、赤穂神社は拝所だったと考えています」と寺島さん。
鏡神社の今の宮司、梅木春雅さん(80)は亡くなった春和宮司の弟だ。
「御鎮座のとき私は鏡神社の禰宜でした。役所に通い、費用を賄い、毎年5月にお祭りをする。寺島さんご夫妻はよくなさってこられたと感心します。」
参拝者には女性が多い。東京や横浜から毎年やってくる人もいるそうだ。十市皇女の数奇な運命、薄幸な生涯が共感を呼ぶのだろう。
寺島さん夫妻が「お告げ」をかなえてから四半世紀。一度造り替えた鳥居も根元が腐りかけてきた。
「お宮の維持くらいは子どもや孫がやってくれるでしょう」と寺島さんは静かに微笑んだ。

~あくがれ日記 より引用

お告げで造られた神社、ということで、こういうこともあるのだと不思議な気分に包まれながら参拝させていただいた。

比売神社

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ここら辺は、女の人の味方になるところが多いところだなぁ、と思いつつ、次にお伺いした場所こそ、実は女の人だったら是非ともお参りしてほしい場所だったということに、導かれると言う事の不思議さを感じたりしたのだった。

どの神社仏閣に於いても、呼ばれなくちゃ、たどり着けないもんってものでして。。。

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