一番危険な欲望は正義の顔をしている~『恐山:死者のいる場所』を読んだ

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photo credit: Osorezan via photopin (license)

若林理沙さんのTweetを見て、謎の言葉を発見する。

ジェムリンガ

ナンダコレ?と思ってググってみたら、

ジェムリンガは膣に納めるジュエリー

ということで、相変わらずこの手の運が良くなるグッズは衰えを見せませんなぁ、と辟易とする。

服部●れいあたりが飛びつきそうなグッズだなぁ、と思ったりして(爆)

私は絶対使いませんけどね(笑)

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最近禅に関する本ばかり読んでいる。

最近は南直哉さんのご本を読みまくっているのだけれども、その中でも新書の『恐山:死者のいる場所』という本は、気軽に読めるけれども、なかなか奥の深い本だった。

著者の南 直哉さんとは

南 直哉(みなみ じきさい、1958年- )は、長野県出身の曹洞宗の禅僧。
早稲田大学第一文学部卒業後に大手百貨店で勤務するも、1984年曹洞宗にて出家得度、大本山永平寺入門。19年間の修行生活を送る。
送行後、福井県霊泉寺住職、青森県恐山菩提寺院代に就く。

Wikiより引用

という方。

永平寺で約20年の修行というだけでも、異例の経歴なのに、現在は恐山の菩提寺の院代をされているという方だったりする。

私は恐山には行ったことが無いので、どういうところかは、正直良く分からない。

イタコの皆さんが居て、この世の果て、というような一般的なイメージしか持っていなかったけれども、この本を読んだら、恐山のイメージがちょっと変わった。

そして、著者の南 直哉さんの言葉には、私が言葉にしたくても出来なかった表現が数多くあった。

例えば、「宗教者の本質」と書かれていた部分では

宗教者は、人間の苦悩を扱う立場です。多くのそれは貧困だったり、病気だったり、人間関係の争い事だったりでしょう。それらの解決は、直接宗教が関わることではないかもしれません。しかし、そうであろうとなかろうと、いずれにしろ、何らかの苦しみ、悩み、切なさを抱えて、人々は宗教にアプローチしてくるのです。

だとすれば、宗教者は、まずその苦しさ切なさに寄り添えなければなりません。問題はそれぞれ別であっても、いま苦しいという、その苦しみに共感できなくてはなりません。それには、自分が存在していること自体に、ある種根源的な苦しさを感じていることが、極めて重要な「能力」になるのです。

その不安や苦しさは、劣等感とは違います。他人と比較可能な能力の不足感に由来する劣等感は、それが宗教に紛れ込むと、「神」や「仏」を道具に使って他人を支配することで優越感を味わおうとする、とんでもない欲望に転化しかねません。

劣等感はないにしろ、人間の免れ得ない苦しみに対する想像力や共感をほとんど持たない人間が宗教にコミットするなら、「他人の弱み」につけこんで儲けようとする、悪質な「宗教商人」に堕しやすいでしょう。「商人」にならないまでも、おそろしく傲慢な「支配者」になるでしょう。

「一番危険な欲望は正義の顔をしている」と言った人がいますが、この「危険な欲望」とは、他人を支配したいという欲望のことです。ならば、それは「正義」の顔ばかりではなく、「真理」や「美」、さらには「神」や「仏」の顔をしているかもしれません。

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)より引用

私の嫌いな商業的スピリチュアルな人々は、他人の弱みにつけこんで儲けようとしている人々ばかりだった。

クソみたいに何にも役に立たないヒーリングや、身に付けるとかえって運が悪くなるようなパワーストーンを売っているような人々。

そういう人々は、必ず「神」や「天使」や「美しさ」や「キラキラ」なんていう言葉をキーワードに、あたかもこれらを身に付けたり、ヒーリングを受けさえすれば、幸せになるようなことを謳っている。

けれども、よく見てみれば、それらを生業としている人たちはちっとも幸せに見えないんだよね。

世間的には成功していると言われている外資系の姉さんと食事に行った時に、会話の中で出てきた言葉が秀逸だった。

とあるお寺では無料で人生相談のようものをやっているらしい、と私が話したら、彼女は爆笑した後に、真顔になってこう語った。

「そんなところに行くくらいなら、悩んでいる原因のものを辞めちゃえばいいのに」

恐山: 死者のいる場所 (新潮新書)
南 直哉
新潮社
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