平気で生きることが悟り

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photo credit: Grey Wagtail – Coldharbour Point, Rainham via photopin (license)

いつものようにAmazonをチェックしたら、おすすめ本の中に『禅談』という本を発見した。

澤木興道老師様が書かれたという本だったけれども、私勉強不足で、初めて澤木興道老師様というお方の存在を知った。

ネットで調べて、そのお言葉を読むと、ハリセンで頭を叩かれたような衝撃を受けた。

こういう感覚は久しぶりだった。ネットに書かれたそのお言葉を読んで、涙が自然と溢れていた。

そこには、真実しか書かれていなかったから。。。

澤木興道老師様についてWikiで調べると

三重県津市に生まれ、4歳で母を、7歳で父を亡くし、澤木文吉の養子となる。1897年に出家を志して永平寺に入り、1899年に出家するも、兵役に取られ、日露戦争に従軍して負傷する。退役後、佐伯定胤に唯識を学び、丘宗潭の命で熊本県の大慈寺に入り、旧制第五高等学校の生徒に坐禅を指導する。
これより、各地の道場を転々とし、「移動僧堂」、「宿無し興道」と称された。1935年に總持寺後堂職となり、駒澤大学特任教授も兼任して、鎌田茂雄や酒井得元を始めとする学生の坐禅指導を行い、それまで選択科目であった坐禅を必修科目とさせ、徹底した坐禅教育を行った。 「何にもならんもののためにただ坐る」という只管打坐を貫き、その一生を通じて実践して見せた。
現在、その思想、指導方法はアメリカのスタンフォード大学にある曹洞禅センターにも受け継がれている。
このほかにも、栃木県の大中寺に天暁禅苑を、京都府の安泰寺に紫竹林参禅道場を開き、坐禅の指導に当たり、駒澤大学退任後は、安泰寺で弟子の内山興正と共に後進の指導に当たった。

なお、駒澤大学の禅文化博物館には、禅堂より移転した澤木興道の木像が弟子の弟子丸泰仙の木像と共に安置されているほか、大学図書館には蔵書が澤木文庫として保管されている。
遺体は死後に献体された。

Wikiより引用

という情報を得たので、安泰寺についてGoogle先生に聞いてみると、安泰寺のHPに辿り着いた。

そして、この文章を読んで涙が止まらなくなってしまった。

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他人の目がすごく気になるあなたへ

澤木興道老師の言葉

屁ひとつだって、人と貸し借りできんやないか。人人みな「自己」を生きねばならない。お前とわしとどちらが器量がいいか悪いかそんなこと比べてみんかてええ。

目が、オレはカシコィのだげれど、位が低いとも思わず、眉はオレは役なしだげれど、位が高いと思わぬ。仏法の生活とは、この不知の活動である。
山だからというて高いと思わず、海だとて広いとも深いとも思わず、一切合財、不知の活動じゃ。
野鳥自啼花自笑、不干岩下坐禅人・野鳥は坐禅している人に、ひとついい声を聞かしてやろうと思って鳴くわけでもなく、花も人に美しく思ってもらおうと思って咲くのではない。坐禅人も、悟りをひらくために坐禅しているのではない。
みなただ自分が自分を自分しているのである。

宗教とは何ものにもダマサレヌ真新しの自己に生きることである。

オイ、どっちゃ向いとるんじゃ。藪にらみみたいな目をして。お前自身のこっちゃ。

ケツの穴だからというて卑下せんでもいい。足だからというてストライキやらんでもいい。頭が一番エライというのでもない。ヘソが元祖だというていばらんでもいい。
総理大臣が一番エライと思うておるからオカシイ。目の代わりを鼻ではできぬ。耳の代わりを口ではできぬ。みな天上天下唯我独尊である。

一切衆生は唯我独尊じゃ、自分が自分を生きるよりほかはないんじゃ。それをどうして見失うたか。
世間の見本が悪いからじゃ。常識といい、杜会意識といい、党派根性といい、一切合財みんな見本が悪すぎる。

徳川時代の儒者は、「釈迦という奴は傲慢な奴じゃ。天上天下唯我独尊などと言いおって」と言うておるが、そうじゃない。
天上天下唯我独尊はお釈迦さまばかりではない。だれでもかれでもみんな天上天下唯我独尊じゃ。
それを天上天下唯我独尊をもち歩きながら愁嘆いうとるだけじゃ。
天上天下唯我独尊を、自分において実現するのが、仏道である。

泣き顔をヤメイ。ちっちゃな気で「オレはツマラヌ」と思い、「ヒトはエライ」と思うて泣き顔してコセコセして。そしてちょっとツマルと調子づきやがって。

宗教をもって生きるとは自分で自分を反省し反省し、採点してゆくことである。

なにごともヨソゴトみたいな顔している人間。

自分で「自分をみくびる」ことがないようでは、信仰も懺悔もない。

このごろグレン隊やら何やらが悪いことしてつかまると、「環境が悪いので」とか何とか言いおる。
いったいどんな環境がよくて、どんな環境が悪いのか。金持ちの息子に生まれれば悪いのか、貧乏人に生まれればいいのか。
だいたい男一匹に生まれて「自己がない」ということこそ、真に環境が悪いんじゃ。

ようつつしんで親だとか先祖だとか背景だとかで、値うちをもたそうとしてはならぬ。金や地位や着物で味をもたせてはならぬ。自分で生きてゆかねばならぬ。現ナマじゃ。宗教とは現ナマの自分で生ききることじゃ。

世の中はヒトやヨソモンを背景にして自分をエラク見せようとする。味ないものを、皿で味をもたすようなもんじゃ。
そんなことで世間では、人間を見失う。

宗教には連帯責任ということはない。私一人である。

凡夫は見物人がないとハリアイがなくなる、見物人さえあれば火の中にまで飛び込む。

世の中に表彰ということがあるが、ロクなことではない。表彰されると「はばかりながら……」という染汚がおこりがちだから。

世の中、競走とか勝負とかいうようなオカシナことがあるべきではない。オレはオレなんじゃ。絶対比較なし。

今は学校の教育からしてワルイわい。試験して、点数をつけて、人間に等級をつけ、番号をつける。こんなバカなことはない。いったいどんなのがエライのか、どんなのがエラクナイのか。モノオボエのいい者がいいのか。 モノオボエの悪いのが悪いのか。モノオボエのいいバカも、いくらだっているではないか。それにビリの番号をつけられた者なんか、「わい、ツマソナイ」と、一生ひがんでしまう者もおる。そのひがむことこそ、ツマソナイ。

人から番号をつげてもらって喜ぶな。自己をもて。自己がわからず、人から評価してもらったり測ってもらったりして、喜んだり、ひがんだり。

わしは人をほめたことはない。みんなよいところは自分でちゃんと知っておるから。しかも中味以上に知っておる。

ネズミが子供につかまえられて、ナブリモノにされ、コブチ(ネズミ取り)の中でバタバタ、バタバタ……鼻はすりむけ、尻尾がちぎれ、それで最後に猫の鼻先につきつけられて、食われてしまう。
わしが、この場合ネズミならと思うことがあるな。「畜生、だれが人間の奴のナブリモノなんかになるもんか」と、コブチの中で坐禅していてやるな。

よそ見なしが成仏である。よそ見がやんで、はじめて飯もだまって食える。

仏道とはよそ見せんこと。そのものにナリキルことである。これを三昧という。飯を食うのはクソをするためではない。クソをするのはコヤシをつくるためでない。ところがこのごろは、学校へ行くのは上の学校へ行くため、上の学校へ行くのは就職するため、と思うている。

菩提心をおこすとは「よそ見をやめる」ことである。「坊主しよか、坊主やめよか。坊主しよか、坊主やめよか」このよそ見がやんで「ただ正法眼蔵をもって重担となして随処に主宰とならん」(「大智禅師発願文」)とキマッタとき、菩提心をおこしたのである。

よそ見なしに、この肉体を仏道につかうのが、太尊貴生、露堂々(この上なく尊く、行きつく所へ行きついて、はっきりしている)ということである。仏とは「よそ見のやんだ人」である。

なにもよそ見する必要はないのじゃが、無始よりこのかた習慣でチラッチラッとよそ見する。

大人になると妙な癖がついているから言葉ひとつでも大騒ぎしおる。
赤ん坊ならなんともない。赤ん坊に恥をかかそうとしても赤ん坊は恥をかかぬ。
大人ばっかりがはじめっから対立感をもっていて、みずから催眠術にかかっているから、恥をかいたり、腹を立てたりする。
ただマッスグにゆけばいいんじゃ。

「鉄牛(鉄でつくった牛)は獅子吼を恐れず」と言うが、そりゃそうじゃ。生物の弱点がないから。
「木人(木で作った人)、花鳥を見るに似たり」-ここにも自主意識の弱点がない。

人間という奴は頭の早い奴で、化けものを見てはや腰ぬからかして、幻影を見ておびえておる。

現実、現実と言うが、この現実にだまされて大騒ぎしているのである。

自分の生き方が、一生みあたらない奴。

クラガリを手探りでゆくことをやめろ。大手をふって歩ける所で歩け。「夜行を許さず。明に投じてゆくべし」(『景徳伝燈録』十五・投子同章)これが宗教の極則である。

見わたすかぎり自分ぎりで、自分でないものは何にもない。「オレのダルイのを手伝ってくれ。オレのイタイのを代わってくれ」・・・そうはゆかぬ。

三昧とは、自分ぎりの自分であり、自性清浄心である。
坐禅だけが、自分ぎりの自分であることができる。
坐禅のとき以外はいつでも他人より勝れたい、他人より楽しみたい根性がでてくる。

われわれだれでも世界と一緒に生まれ、一緒に死ぬ。めいめいもっている世界が違うのじゃから。

安泰寺 HPより引用

あまりの衝撃に、しばし呆然となりつつ、今まで自分が生きていた世界というものが、他人の目を気にしたクソみたいな自意識にまみれていたということを痛感させられた。

「自分」というものを守るために、何処の会社に勤めていたとか、何処に住んでいるとか、年収はこの位、とか、そんなことを心の支えとして生きてきた「自分」というものを、改めて認識させられた。

人と比べて落ち込むなんて、ツマラナイこと。

なのに、自ら進んでそのツマラナイ世界に染まっていた。

曹洞宗繋がりと言うことで『永平寺 「104歳の禅師」・「修行の四季」 [DVD]』のDVDを見返すと、宮崎 奕保禅師様も表現方法は違うけれども、同じことを語っていた。

宮崎 奕保禅師様が、大病をして入院された際のエピソードとして、語られていた言葉の中に、

正岡子規の 「病牀六尺」 という本には、「人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っておった。ところがそれは間違いやった。平気で生きておることが悟りやった」と。
分かるか、平気で生きておることは難しい、死ぬときが来たら 死んだらええんやし、平気で生きておれるときは、平気で生きておったらいいんや

というお言葉があった。

このブログの「キセキレイスタイル」という名前は、以前記事にもしたけれども、『座禅をすれば善き人になる』に描写されていたキセキレイの姿にインスパイアされて、私もキセキレイのように自らに与えられた物事を自然に実行する人になりたいと願って付けた物だったりする。

自らの使命に気付き、それを何の期待もせずに、平気でやっていくこと、それが、生きるということなのだと、改めて実感した。

自然はこれをやったら幾ら貰えるか、なんて思わずに、花を咲かせる時には花を咲かせ、散り行く時には、静かに黙って散って行く。

その姿にこそ、人々は魅入られ、感銘を受ける。

今、これらの言葉に触れるのは、意味があるのだろう。

澤木興道老師様のご本をネットで注文した。届くのがこんなにも楽しみな本はとても久しぶりなので、自分にこういう感覚が残されていたことに自分自身でもびっくりした。

そして、また永平寺に行きたくなった。

禅談
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