神様のすきなもの

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photo credit: japan_style via photopin cc

たまーに、白いご飯と焼いたウインナーが食べたくなる。

別にブランド米や高級なウィンナーなんかじゃない、普通のスーパーで売っているようなもの。

小さい頃、近くのお友達と遊んでいたら、その子の家のおばさんがキセキレイちゃんもお昼食べていきなさいよ~、と、簡単なお昼ご飯を出してくれた。それが、山盛りの焼いたウィンナーと白いご飯というものだった。

けれども、すごく記憶に残っている。

今じゃ近所の子供にご飯を食べさせる、なんてことはないのだろうけれど、私が小さい頃に住んでいたところは、近所の子供はみんな自分の子供、ってなカンジで、街のみんなが子供を見守っててくれた。

美味しかったなぁ、って。

なんであんなに美味しかったんだろう、って思う。

今の世の中は美味しいものというのが溢れかえっていて、いろいろな美味しいものというものを食べられるけれど、食べた瞬間は美味しいとは思っても、記憶には残らない。

結局食べ物って、素材の美味しさうんぬんよりも、誰と食べたか、っていう、記憶や気持ちを食べているんだと思った。あの白いご飯とウィンナーは、おばちゃんが私を思っていた気持ちがこもっていたからこそ、子供心にもとても美味しく感じた訳で。


とある神社に行った際に、村人が神様に捧げるものを持ち寄った際に、とある老女がカップラーメンを持って来た、という話を聞いた。

普通に考えたら、カップラーメンを持ってくるなんて、と思うけれども、その老女が出来る限りの範囲で持って来られたのがカップラーメンだった、ということで、その神社の宮司さんは、神様もさぞかしお喜びだろうと、ありがたくそのカップラーメンを神様にお供えしたということだった。

神様に対する気持ちも、人に対する気持ちも結局は同じこと。幾ら高価で美味しいものを捧げても、気持ちがこもっていないと、それは全然意味を成さない。

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