「お伊勢さんからもうひとつの聖地へ~熊野古道」を見て聖と俗について考えた

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photo credit: 顔なし via photopin cc

昨日たまたまテレビをつけたら、MX TVで「お伊勢さんからもうひとつの聖地へ~熊野古道」と言う番組が放送されていた。

昨晩のテーマは「熊野本宮大社」

和歌山県田辺市にある熊野本宮大社。「伊勢路・中辺路・小辺路・大峯奥駈道」など、多くの熊野参詣道が交差する熊野信仰の重要な拠点。

「家津御子大神」を主祭神として祀られ、これは「スサノオノミコト」の事と考えられているが、熊野本宮大社には「イザナミノミコト」を連想させるいくつかの痕跡が残されている。果たして、熊野本宮の神とは一体何者なのか? そのミステリーに迫るのが、花形歌舞伎役者の四代目・市川猿之助さん。

猿之助さんは、湯の峰温泉から本宮大社までを結び、かつて修験僧や神官など、限られた人だけが通った道「大日越え」に挑戦。熊野はなぜ浄土を求める人々の聖地となっているのか?旅を通してその理由を考える。

熊野地方には古くから、「一遍上人」や「和泉式部」にまつわる伝説や民話が語られているが、その中でもとりわけ有名なのが「小栗判官物語」。地獄から送り返された餓鬼阿弥(小栗判官)が、治癒のため湯の峰温泉へ向かう物語である。実はこの物語、市川猿之助さんと深いかかわりがあった。

~「お伊勢さんからもうひとつの聖地へ~熊野古道」番組HP より引用

という内容だったのだけれど、今回の旅のナビゲーターの市川猿之助さんがとても良いことをおっしゃっていたので、思わずメモりながらTVを見ていた。

市川猿之助さんはパワースポットという言葉は嫌いだけれども、とおっしゃっていたのには、激しく同意してしまった。私もパワースポットという言葉を記事のタイトルに使ってしまったりするけれど、巷で使われるパワースポットという言葉には違和感を感じてしまう部分があるので、こう言ったことをはっきりとおっしゃる市川猿之助さんに好感が持てた。

そしてパワースポットについて、例えば本来人が入って良い場所といけない場所があるということや、禁足地という場所があることなどを語っていた。

また、神様である素戔嗚尊もヤマタノオロチを退治したという良いところと、高天原で狼藉を働いたという悪いところがあるように、パワースポットでも、良いところと悪いところがある、とおっしゃっていた。

私も数少ないけれど、日本各地の神社仏閣やパワースポットという場所に行った経験から言っても、まさしくその通りだな、と感じてしまうところがあったので、市川猿之助さんという人は(歌舞伎役者であることは重々承知しているけれど)一体何者なんだろう?と思いながら番組を見ていた。

また、熊野という土地は「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず」という場所であるということや、聖と俗というものは、極端なゆえに同じものになる、ということを語っていたのがとても印象に残った。

聖と俗が極端なゆえに同じものになるというのは、つまり、どちらに偏りすぎてもいけないということ。

私はこれを見ながら、精進落としについて思い出していた。

例えば昔は吉野山では洞川、伊勢では古市といったように、聖地と呼ばれる場所の近くには、必ず精進落としの場所があった。

この精進落としというのは、聖地で修行を終えた男性が、聖地の近くに設けられた遊廓で飲食を楽しんだり、買春する行為を言うのだけれども、普通の見方では「修行でがんばった御褒美、といった形で都合よく男が遊んでいるだけ」と思ってしまうだろう。

けれども、この精進落としこそ、聖から日常へ戻る際に必要なことだということを、以前『うわさの人物―神霊と生きる人々 (集英社文庫)』という本を読んで知った。つまり、「聖」すぎては、日常に戻ることが出来ないということ。それは逆に「俗」すぎてもいけないということも出来る訳で。

これは私見だけれど、スピリチュアルにはまっている人が陥りやすいのは、「聖」ばかりを求めてしまうこと。そして「俗」を否定しすぎて、日常を生きられなくなっている人が多いように感じる。

市川猿之助さんが、今は、聖地という場所にどこへでも行ける時代になったけれども、聖地という場所も人が入ることによって穢れる。大事にしたいものほど、近づかないということが大切なのではないか?と言ったようなことをおっしゃっていた。

私もこの意見には大賛成で、以前「知らなかった、だけでは済まされない」という記事にもしたけれど、スピリチュアルやパワースポットという言葉が好きな人たちは、御神木に抱き付いたり、神様が降りられる石に手をかざしてパワーをもらっているような気になっているけれど、それは御神木や石を穢していることになるということに気が付いていない。

最後に聖も俗も、良いことも悪いことも全て飲み込んでしまうのが熊野川と市川猿之助さんがおっしゃっていたけれど、テレビの画面からでも、その全てを飲み込んでしまうような川の流れは感じる取ることが出来た。

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photo credit: umelog via photopin cc

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